<<text-top
3月、卒業旅行 (氷上×主人公)
卒業式が終わってから、数日が過ぎた。
私と氷上くんは大学へ入学する準備やら何やらで忙しくなり、会えない日々が続いていた。
それでも3年間暖めてきた気持ちをやっと自覚し、それをお互い確認出来た事はとても大きな出来事で。あの告白の後は、電話をするだけでもまるで初めて会話を交わす時のようにどきどきしてしまった。
それは氷上くんも同様のようで、電話越しのまるで他人行儀な物言いに、思わず笑わされる事もしばしばだった。
そんな時、私は町内の商店街で初春の催しとして行われていた福引きでもって、なんと特賞を当ててしまった。
商品は、一泊二日の温泉旅行ご招待。
それも町内の商品ゆえの気安さか有効期限が3月末日までときている。
……どうしよう。
今から友人たちに誘いをかけるのも、余りにも急過ぎて気が引ける。
別に家族を誘ってもいい訳だけれど…
私はそう考えながらも、自然と鞄の中の携帯に手を伸ばしていた。
「旅行?」
あきらかに、不審そうな声色で繰り返す氷上くん。
「2人で?……温泉宿に?」
「う、うん」
「い……」
若干うわずる声。
「……一泊二日で?」
「いや、そのう、うん、そうなんだけど……」
「君は、それを本気で言っているのか?」
そう言い返されて、私は居たたまれないぐらいの恥ずかしさに襲われてしまう。
「えーっと、そのう、ごめんなさい」
私は取り繕うように慌てて言葉を続ける。
「氷上くんも色々と忙しいもんね、駄目だよね」
「………」
「ああ、そういう問題じゃないか……あ、あは」
「…………」
沈黙が耳に痛い。
……なんで氷上くん誘っちゃったんだろ。
こうなるのは分かり切っていたというのに。
一応、付き合い始めたという形にはなったものの、あの、氷上くんと……2人きりの温泉旅行なんて。
許される筈がない。どころか、
「結婚前の男女が一泊旅行なんて、不健全な事を!」
とか叱咤罵倒される事、請け合い。
「ごめんね、変な電話しちゃって。えーっと、また、連絡するね」
沈黙に耐えかねて、早々に話を切り上げて電話を切ろうとする私の耳に、氷上くんの若干慌て気味な声が届く。
「ちょっと待ってくれ、僕はまだ何も言ってないぞ」
「馬鹿な事言ったって自分で分かってるんだもん……だからそんなに怒らないで?」
「別に僕は怒ってなんかないよ」
「……え?」
「いいよ。行こう」
………。
今度は私が沈黙する番だった。
「確かに、未婚の男女が2人……きりで、その、一つ屋根の下で一夜を共にするというのは……色々と、問題があるには違いないが」
ただの温泉旅行が氷上くんが言うと妙に気恥ずかしく聞こえる。何だか本当に、とんでもない提案をしたような気持ちになる。
「でも、だって、あのう、いいの?」
「君は僕が断ったら違う人を誘うのだろう?」
「え、うん、多分」
「それならやっぱり僕が行こう」
そう言ってから、慌てたように付け足す氷上くん。
「い、言っておくが、他意が有るわけでは決してないからな。部屋も別に取って貰おう」
「う、うん」
「大学が始まってしまえば、そうそうこんな時間も取れなくなるだろうし、その前にこんな思い出作りもいいのかもしれないと……あくまで、そういう気持ちで」
その後も何か言い訳めいた呟きが続き(よく聞き取れなかったけれど)、日程などのすりあわせを後日行う事にして、電話は切れた。
ーーー吃驚した。
まさか、あの、氷上くんからオーケーが貰えるなんて。
やっぱり電話して、良かったかも。
私はうきうきとカレンダーに向かって旅行の計画を立て始めた。
お互いの都合を考えて、旅行はそれから一週間後という事に決まった。
予約もきちんと済ませ、無事出発ーーという前日。
やっぱり氷上くんらしいというべきか。
突然うちを訪ねてきた思うと、いきなり私のお母さんに向かって一礼し。
「明日からの旅行にお嬢さんとご一緒させて頂きますが、僕が責任を持って彼女を送り届けます。ですから、安心して下さい」
「はぁ」
玄関先でいきなりそんな事を言われて呆然と頷くお母さん。
私は旅行の相手を友達、とだけしか伝えていなかったから、そりゃあ驚く…よね……。
お父さんがいない時で本当に良かった……。
今までも氷上くんがうちに来た事はあったから、お母さんはすぐに事情を飲み込んだ様子で、
「氷上さんと一緒なら安心ねぇ」
とにっこり。
「ちょっと鈍いしうぶな子だから、色々大変だと思うけど、よろしくね」
「は、はい」
「お父さんには内緒にしておくから、ガンバってね!」
「は………」
「お母さんっ」
真っ赤になる私にひたすら恐縮する氷上くん。一人上機嫌なお母さんだった。
ああ……何だかもう。
先が思いやられてきた。旅行に限らず、これから先の事まで、色々と。
電車を乗り継いで、着いた駅からバスに揺られて数十分。
到着した宿は、歴史の重みを感じさせる古風な温泉宿だった。
「うん、これはいい宿だね」
氷上くんがあちこち興味深げに眺めては、造りや年代について細かく考察しているようで。
いくつか会話を交わしているうちに迎えの人が現れて、私たちを部屋に案内してくれた。
案内された先は、離れになっている庵風の一室。
随分と時代がかった趣があって、こんな所に泊まれると思うだけでも楽しい気分になってくる。
そこに入るという時になって、やっと部屋の鍵を渡された。
それは、どう見ても、鍵が1つきり。
見回しても、部屋はこの一部屋だけに見える。
「部屋は、二部屋でお願いしていたと思うのですが?」
私が疑問を口に上らせる前に、氷上くんが宿の人に問いかけた。
「え?こちらはそのように伺っておりませんが……」
えっ!!
途端に慌てる私たちを不思議そうに見る宿の人。
「その、つまり、僕らの部屋はこの一部屋だけという事ですか」
「はあ」
「それなら、今からでも別に一部屋お願いしたいのですが」
氷上くんが慌てたようにそう言ったが、宿の人は困ったように眉を寄せた。
「あいにく、今日は全室ふさがっておりまして……」
「いや、でも、僕たちは最初から二部屋でとお願いして」
「そう言われましても……」
なおも食い下がる氷上くんに対して、一応確認してきます、とだけ言い残して宿の人が立ち去ってしまう。
「………参ったな」
ちらりを私を見てから、氷上くんは、心底困惑した様子でそう呟いた。
結局、宿の人の言うことは正しかった。
この部屋しか無いからと、お詫びにと夕食時にドリンクサービスを付けてくれたりしたのだが、それでは根本的な解決にはなってない訳で。
自室で取る豪華な懐石料理は、本当は美味しい筈なのだろうけど、張りつめた緊張感の漂う空気の中ではほとんど味が分からなかった。
時々、向かい合ったままちらちらと様子を伺う位で、お互いに言葉を発する事もなく。
……何だか酷く居たたまれない。
こんな筈じゃなかったのになあ……。
行きの電車の中では大学に向けての色んな話をしたりして、楽しかったのに。
「……すまなかった」
ぼそりと、氷上くんが呟く。
「僕のミスだ。ちゃんと確認したつもりだったんだが……」
「ううん、氷上くんのせいじゃないよ。宿の人の手違いかもしれないし、あんまり気にしない方がいいよ?」
「………」
一向に顔を上げようとしない氷上くん。
こういう雰囲気になってしまうと、逆に私の方が妙に落ち着いてきたりして。
「うーんとね。私としては、こうなった事で逆に一緒に過ごせる時間が多くなって、嬉しいかも」
普段なら言わずにいた事までつい言ってしまう。
「……情けないな、君に気を遣ってもらってしまって」
それでも尚、自嘲気味に呟く氷上くん。
私は思わずその場で立ち上がってしまった。
「くん?」
「行こう!」
「え?」
「温泉。入ればきっとすっきりするよ!」
「す、すっきりはするかもしれないが、それは何の解決にも」
言い淀む氷上くんの腕を掴んで、立ち上がらせる。
「考えてみれば、修学旅行だって同じ屋根の下だったんだし、そんなに変わらないよ。あんまり気にしない」
「いや、それは全然問題が違」
尚も言いつのる氷上くんに浴衣セットを押しつけて、強引に腕を引っ張る。
「さ、行こっ!」
「……」
ぐいぐいと引っ張り続けていると、氷上くんの顔が赤く染まっていく。
「……分かったから、余り、その……」
「え?」
「密着しないでくれるかい」
不自然に、私に触れないように体を離している氷上くん。
「あ、ごめん」
慌てて手を離して、強引にし過ぎたかと反省する。
「その、君はあまりにも無防備過ぎる、というべきか……」
ぶつぶつと呟く氷上くんは、どうやら怒っている様子ではないようだけれど。
耳まで赤くしているのが気になったけれど、やっと少し元気になった様子の氷上くんを見て、私もなんとなく安心した。
「ふあ…あ」
体を洗い、温泉に浸かると、思わず息が漏れてしまう。
夕食時とあって思っていたより入っている人は多くない。しかも露天風呂に出た時に丁度入れ替わりで人が出て行ったから、今はここは私ひとりで独占。
「うーん、贅沢!」
呟いて大きく伸びを一つ。
今までは家族と来るのが普通だったから、こんな風に一人だけでお風呂に入るというのは不思議な感じだった。
ーー氷上くんと一緒に入れたら、楽しそうなのになあ。
なんて思ってから、それがとんでもない事だと気付いて、一人顔を赤くしていた。
……誰も入って無くて本当に良かった。
それからふっと、男風呂との境に立てられている竹藪を模した造りの塀を見遣る。
ーーこの向こうに氷上くんが入ってるのかな。
そう考えて、余計に恥ずかしくなってしまい、結局私は早々に露天風呂を出るはめになった。
それから簡単に身繕いをし、お風呂場を出ると、既に氷上くんが待っていた。
30分後にお風呂場を出た所で待ち合わせ。いつものように遅れのない様子に思わず笑んでしまう。
「早いね、氷上くん」
「ああ」
「5分前行動?」
「いや……それはまあ、うん」
困ったように苦笑いを浮かべる氷上くん。
「こんな所に来てまで言われるとは思わなかったな」
「あ、ごめん」
「いや、確かにその通りだからね」
氷上くんが笑う。
「身に付いた習慣というのはどんな時でも発揮されてしまうものなんだろうな」
「うーん、そうかも」
その口調には、先ほどまでの自分を責めるような響きはなくなっていて、私は安心する。
すらりとした身体に似合う浴衣姿。見慣れないだけに何だかどきどきしてしまう。
「君も、随分とゆったりと露天風呂に入っていたようだけど?」
「だって、すっごく気持ち良くってーーー」
と、そこまで言ってから、はたと氷上くんを見る。
「……もしかして、何か聞こえてた?」
「その。たまたま、……僕も露天に入っていてね」
氷上くんには珍しく、悪戯を見つかった子供のような表情を浮かべている。
「そ、そういう事は早く言ってっ!」
私はその時考えていた事まで見透かされた気がして(それは考えすぎだろうけど)氷上くんを軽く叩く。すると、私につられたのか氷上くんまで顔を赤くしてしまう。
「いや、その。当然の事だが、僕は覗いてないぞ!」
「わ、分かってるよ」
なんだか、色んな事が恥ずかしすぎて。
この温泉旅行、氷上くんと来た事をちょっとだけ後悔していたり。
ーー勿論、それ以上に幸せな気持ちがいっぱいではあるんだけれど。
しかし、本当に恥ずかしい思いをするのはこれからだったようで。
部屋の扉を開けた途端に飛び込んできたのは、2組並べて敷かれた布団。
それを見た途端、ひくっと氷上くんの顔が引きつるのが分かった。
「そ、それじゃあ僕は荷物を片づけるから」
出来るだけ自然を装っているようだけれど、上がり框に向こう臑をぶつけたりと若干行動が怪しくなる氷上くん。
あああ……これって元の木阿弥って言うんじゃ?
互いに無言のまま自分の荷物に向かって風呂道具を片づけるが、それが終わると途端に手持ち無沙汰になってしまう。
「え、えーと。お茶でも入れるね?」
「あ、ああ。頼むよ」
私が立ち上がりながらそう言うと、びくりと身体を震わせた氷上くんが取り繕うように答える。
ううーん、この雰囲気を打開出来る術はなにか無いかしら。
私はそんな事を考えながら茶器を取り出そうと蓋を開ける。
「あ。昆布茶発見」
「昆布茶?」
「うん。わー、しかも梅昆布茶だ」
私がそう言うと、いつの間にか側に来ていた氷上くんが私の横から覗き込んでくる。
「美味しいんだよねえ、こういう所で飲む梅昆布茶」
「そうなのか?」
「氷上くんは飲んだ事ないの?」
「余り、意識しては無いな」
「そうなんだ」
私は早速1袋取り出して自分の湯飲みに入れ、お湯を注ぐ。
「氷上くんも飲んでみる?」
「ああ」
私がお茶を取り出し、注ぐのをじっと見つめている氷上くん。
「……そんなに見られると、入れにくいよ」
「あ、すまない」
氷上くんが慌てたように視線を外して、私の顔を見る。
「……」
「……」
「……こういう時、僕はどういう風に待っていたらいいんだろうか」
困ったように私に問いかけてくる氷上くんに、思わず笑ってしまう私。
その場の雰囲気が一気に和んだものになった気がした。
暖かい湯飲みに口を付けながら、窓の向こうに設けられたこぢんまりとした中庭を眺めていると、不思議と気分も落ち着いてくる。
そんな中、氷上くんがゆっくりと口を開いた。
「君は、大学に入ったら何かやりたい事はあるのかい?」
「え?やりたい事?」
突然問われて、私は考える。
「私は……うーん、何だろう」
入るまでの事で精一杯で、まだ具体的には何も考えていなかった。
「まずは新しい生活に慣れたいな。サークルとかも、色々見てみたいし…」
「そうか」
「氷上くんは?やっぱり、勉強?」
私が見上げると、氷上くんはじっと窓の外を見つめていた。
「勉強はもちろんだけど。もっと色んな事も学びたいと思っている」
「ふうん?」
「僕は今までずっと勉強さえ出来れば良い、規律さえ守れば良い、それが一番正しい行いなのだと信じていたわけだけど」
そう言ってから、一旦湯飲みを傾けた。
「……こういう性格だから、他人を穿って見るのが苦手でね。ずっと自分が正しいと思ってきたし、僕が正しい事を言っていれば、いつかそれが周りの為になると……勝手にそう思ってた」
まるで独白のように、氷上くんは言葉を続ける。
「極端に言ってしまえば、周りの感情の機微など、知った事ではなかったんだと思う。勉強さえ出来ればそれでいいのだと。でも、君と知り合って、僕はそれが間違っていた事に気付いた」
ふっと氷上くんが視線を下ろす。目が合う。
「規則を守るだけじゃない。勉強が出来るだけじゃない。それをどう使うかが一番重要なんだってね」
「氷上くん」
まるで、眩しいものを見るように、私を見ながら目を細める氷上くん。
「勉強はもちろん出来るのに、それでいて誰からも好かれる。いつでも明るく、自分の感情に真っ直ぐに振る舞える。そんな君が……本当に凄いと思った」
再び逸らされた視線からは、どこか痛々しさのようなものが感じられた。
「……同時に、羨ましい、とも」
ーーー吃驚した。
氷上くんが、そんな風に私の事を思っていたなんて。
ちっとも知らなかった。
同時に、激しい焦燥感に襲われる。
だって私は。
「私はそんなに凄い人間じゃないよ」
大きく首を振る。
「勉強だって氷上くんには敵わなかったし、ノートだって氷上くんの方が断然綺麗だし」
考え考え反論する私を困ったように見下ろす氷上くん。
「そういう問題じゃないだろう?」
「それは、そう、なんだけど…」
だからといってはいそうですと頷く訳にもいかない。
「だって、私は」
そんな崇高な志を持っている訳じゃない。
私はただ。
「くん?」
黙り込んでしまった私を気遣うように覗き込んでくる氷上くんに、私は意を決して口を開いた。
「氷上くんと一緒に居たかったから」
ただその一心で、氷上くんと並ぶために頑張ってきたんだもの。
だから、氷上くんの言うような存在では決してない。
酷く不純な……そんな動機からだったんだから。
こんな動機、言ったら絶対呆れられそうでどうしても言えなかったんだけど。
だけれど、私がそんな凄い人間だって誤解されている方が……もっと、困る。
突然そんな事を言い出した私を驚いた様子で見つめる氷上くん。
氷上くんは狐につままれたような……何とも言い難い表情を浮かべていた。
「……つまり?」
まだ納得出来ないのか、再度問いかけてくる。
「えーと、だから。私が氷上くんと釣り合うようになれればいいなーって」
「それは……その、つまり……勉強も、生徒会活動であんなに頑張っていたのも。ぼ…僕と釣り合う為だったと言いたいのか……?」
「……動機が不純で、ごめんなさい」
私がそう言うと、一拍置いてから、氷上くんはかぁっと顔を紅潮させた。
「君って人は………」
「そ、その時は自覚してなかったんだよっ!後から考えてみたら、そういう事なんだろうなーって。今更…だけど……」
そう言ってあはは、と笑う私をしばらく見つめた後、氷上くんは大きく息を漏らした。
「……君のお母さんに心の底から賛同するよ」
その話が、私が鈍い云々と言っていた事を指しているのだと気付いた時には、既に氷上くんは窓際を離れて部屋の中に戻っていた。
「何だか、悩んでいたのが馬鹿みたいだな」
ぼそりと呟きが聞こえて、私は思わず氷上くんの前に回り込んでしまう。
「氷上くん、悩んでたの?」
「…ずっと片思いだと思ってたんだ、僕は」
「え」
「君は誰とも仲が良かったからね。君が誰かと下校している姿を見る度、酷く戸惑ったものだ。まあ、それが自覚したきっかけと言えば、そうなんだが」
「そ、そうなんだ」
それは全然知らなかった。
でもあの頃は、自分でもこんな気持ちに気付いて無くて。
そう考えると、私は随分と氷上くんに対して酷い事をしてきたんだろうか?
「だから」
そんな私の思いを余所に、ゆっくりと伸ばされた手が、私の頬に触れる。
「今こうして、君が手の届く所に居てくれる事が、何だか不思議で……堪らなく、嬉しい」
「……氷上くん」
指がゆるゆると、探るような軌跡で私の顎を伝う。
何だか恥ずかしくて、俯きそうになる自分を、なんとか止める。
私は氷上くんが好きなんだと。
はっきり知っていて欲しかったから。
じっと見上げていると、おそるおそる、といった感じでもう片方の手が背中に回ってくる。
私が我慢できずに目を閉じると、ゆっくりと顔が近づいてくるのが分かった。
「……ん…っ…」
唇が重ねられた。
腕を掴んだままの氷上くんの手が熱い。相手に伝わってしまうのではないかと思う程、私の心臓の鼓動も早くなる。
唇が一旦離れ、角度を変えて再び押しつけられる。
それが幾度か繰り返された後、口付けが深くなった。
たどたどしい動きで、唇を割られる。
「……!」
入ってきた舌に反射的に顔を引くが、いつの間にか背中を壁に押しつけられる格好になっていた私は、それ以上その場を下がる事が出来なかった。
「……んん…っ」
何かを求めるように深くなる口付けに、私は段々息苦しさを覚え始めた。
それを訴えようと体を捩るが、氷上くんはちっとも気付いてくれない。
「んーーーっ……!」
氷上くんが私の様子に気付いてようやっと解放してくれた時、私はおそらく酸欠によるものであろう目眩に襲われて、そのまま座り込んでしまった。
「っ、くん?!」
「………」
狼狽する氷上くんに、私は酸欠ですとも言う訳にもいかず、ぼんやりと見上げてしまう。
「その、大丈夫かい?」
「う……うん」
焦点の合わない目を上げて、精一杯返事を返す。
そんな私に、息を詰まらせる氷上くん。
「?」
私は驚いて自分の姿を顧みた。
気付けば、私が今座っているのは仲良く敷かれた布団の上で。
浴衣は裾が乱れて太もも辺りまで全開し、襟元は開いて肩から落ち……下着が、見事に見えていた。
「〜〜〜〜〜っ!」
声にならない声を上げて、その場に俯せる私から、慌てて手を離す氷上くん。
「すすすすすまない!!そんなつもりでは!!!」
「…………」
言葉も出ない私に対し、
「ぼっ……僕は、もう一度風呂に入ってくるよ!それじゃあ!」
と、氷上くんは慌てたようにそう言い残して、部屋を飛び出して行ってしまった。
タオルも持っていかないで良かったのかなと。
一瞬思ったけれども、それを言える程の余裕もなく。
……それからしばらくして。
氷上くんが戻ってくる頃には、私は顔を合わせるのも恥ずかしく、自分のお布団に潜り込んで寝たふりをしていた。
氷上くんはというと布団を窓際まで引っ張っていき、その境にある障子をきっちりと閉めて、部屋を分けてくれたようだった。
私を気遣っている様子なのがとてもよく分かったので、私は何となく、申し訳ない気持ちになってしまう。
「ごめんね、氷上くん?」
障子越しにそう呟くと、まだ寝ていなかったのかすぐに返事が返ってきた。
「いや、元はといえば僕のせいだから。君が気にする必要はない」
「さっきは、そのう、恥ずかしくって、慌てちゃったけど……一緒の部屋で寝るのが嫌って訳じゃ、無いんだよ?」
「あ、ああ。分かっている」
氷上くんが誤魔化すように咳払いを一つ。
「恥ずかしい所といったら、それこそ、僕の方が……」
そこまで言って、声が小さくなる。
「……欲望というものがこれほど理性で駆逐出来ないものだとは、初めて知ったよ」
「え?」
「いや……何でも」
障子の向こう側でごにょごにょと呟く声は私にははっきりと聞こえなかった。
それから二人で障子越しに何とは無しに話を続けているうちに、いつの間にか私は眠りに落ちていた。
じわっとした温もりを頬に感じて、私はゆっくりと目を開いた。
「ん……」
開け放たれた障子の間から、陽の光が部屋に射し込んで、私の寝ているお布団の上に降り注いでいた。それが顔に当たってきたせいで、目が覚めたようだった。
「おはよう」
私がぼうっとしたまま窓の方を眺めていると、聞き覚えのある声が掛けられた。
「あっ……お、おはよう!」
私が一瞬にして覚醒し、慌てて起きあがると、氷上くんは既に浴衣から普段着に着替えも終えた状態で、目の前に座っていた。
お布団なんかも丁寧にたたまれていて、今は自分の荷物の片づけをしているようだった。
私も大慌てで布団を出る。
「ごめん、私、寝坊しちゃったかな」
「いや、そんな事は無いよ」
枕元の時計を見遣ると、時間は7時を少し過ぎたあたり。
「あ、本当だ……。氷上くん、早起きなんだね」
「うん、まあ、その」
曖昧に頷く氷上くん。
「君はよく寝ていたから、何だか起こすのが憚られたよ」
「うう……起こしてくれても良かったのに」
なんだかだらしのない所を見られたようで、恥ずかしい。
「待ってるから、ゆっくり支度すればいいよ。急ぐ理由も無いだろう?」
「うん。ありがとう」
朝食も部屋食だから、そういう点ではだいぶ気楽だった。
でも、朝食の最中も、帰り支度をする最中も、氷上くんはどこか上の空だったのが気になった。
それから私たちは、この温泉宿が山奥にある為に周辺にも観光に向く所がなかった事と、色々と予定外の出来事があった事による疲れもあって、どこにも寄らずにこのまままっすぐ帰る事にした。
帰りの電車の中は、まだ時間が早いせいか人は少なだった。
空いている場所を選び、二人で並んで座る。
「氷上くん、もしかして、疲れてる?」
電車が発車してからしばらくしても、未だぼんやりとしている氷上くんに、つい、聞いてしまう。
「えっ。いや」
慌てたように首を振る氷上くん。それから、困ったように視線を泳がせた。
「その……少し、眠くてね」
「眠い?」
「ああ。昨夜、よく寝られなくて」
「えっ。もしかして氷上くん、枕が変わると眠れなくなる人?」
「いや、その。そういう訳じゃないんだが……」
氷上くんは何だか返答に窮している様子だった。
私はその理由がよく分からなかったけれど、困らせたいとも思わなかったから、それ以上追求しない事にした。
「少しばかり、ここで寝ても構わないだろうか」
「うん。気にしないで、寝た方がいいよ」
「…ありがとう」
ふわっと笑う氷上くん。
わ。何て無防備に笑う人だろう。
学校では全然見た事のなかったそんな表情に、私は驚かされてしまう。
それから数分と経たぬうちに、隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
私は氷上くんが寝たのを確認する意味も兼ねて、こっそりと顔を覗き込んでみた。
と、がくんと電車が揺れた拍子に、氷上くんの頭が私の肩に乗っかってくる。
ーーわっ。
一瞬起きてしまったかと思ったが、氷上くんは少し身じろぎをしただけですぐにまた寝息が聞こえてきた。
ーー苦しく、ないのかな。
身体を折り曲げるようにして、私の肩に頭を寄せる氷上くん。間近に見える氷上くんの顔に、動悸を押さえながら様子を伺う。
起きる気配、なし。
よっぽど、疲れていたのか、本当に寝てないのか……。少し心配になるぐらい。
ーーうーん。
それでも、こんなにまじまじと見る機会なんて今までなかったから、ついつい、隅々まで観察してしまう。
……肌、綺麗だなあ。
……睫も、思ったより、長いなあ。
眼鏡越しじゃない目も、間から見えて。
なんだかますます、激しくなる動悸。
……眼鏡取ったら、起きちゃうよね。
そんな子供みたいな衝動を抑えつつ。
かすかに開いた唇が目に留まる。
隙間から少しだけのぞいた舌に、唐突に蘇る、昨夜の抱擁とその後の感触。
ーーわー、わー、わー!
慌てて両手で口を押さえて視線を外す。
何考えてるんだろ、私!
そう思っても、一旦浮かんだあの生々しい感覚はなかなか忘れられない。
もう……私も寝てしまおう……。
こんなに頭に血が上った状態で、しかもその相手を横にして眠れるかは分からないけれども。
もしかしたら、氷上くんが昨夜寝られなかったっていうのは、こういう事だったんだろうか?
纏まりのつかない頭の中で、なんとなく、そう思った私だった。
それから、氷上くんは真っ直ぐ私を家まで送ってくれた。
「それでは、僕はこれで失礼します」
堅苦しく私のお母さんに頭を下げてから、氷上くんはうちの玄関を出た。
私が後を追って玄関先に出ると、
「送らなくていいよ。君も長旅で疲れただろうから」
そう言って私を制した。
「うん、分かった。じゃあ、また電話するね」
「ああ」
そう言って、背中を向ける氷上くん。
なんだかちょっとだけ、名残惜しい。
すると、いきなり氷上くんが振り返ったので、その気持ちが伝わってしまったのかと一瞬どきっとした。
「その……大学入ってから、やりたい事を考えたよ」
「え?」
「免許を取ろうと思う。そうしたら、一緒にドライブに行こう」
眼鏡の奥の目が、私をじっと見つめている。それはとても優しげで、返事を待つ間ゆえか、ほんのちょっぴり、不安げで。
あの眼鏡の下の表情を、私はちょっとだけ知ってる。
そして、これからもっともっと、氷上くんの色んな表情を知りたいと思った。
「うん。楽しみにしてる」
私がそう言うと、氷上くんは本当に嬉しそうに笑った。
いいわけ
町内の福引きって何だって感じですね。すみませんすみません
非常にベタちっくな展開でひねりもなにもないお話ですが、妄想止まらずやってしまいました…
<<text-top