日常の光景1

「坊ちゃん、朝ですよ」
「……ん……」
 自室のベッドに眠っている坊ちゃんに声をかけてから、私は台所であらかじめ作り終えていた朝食を出す支度にかかる。
 食堂には燦々と朝日が差し込み、椅子や机を明るく照らし出している。
 テーブルに皿を一通り並べ終わった頃、坊ちゃんが食堂に入って来た。
「ミルクにしますか?コーヒーにしますか?」
「……ん。ミルク」
「はい」
 いつもと変わらない、朝の風景。
 坊ちゃんが英雄として協力を求められたデュナン統一戦争が終わってから、私と坊ちゃんは二人、懐かしい我が家へと帰ってきた。
 昔と同じ平穏な暮らしに戻り、もう1ヶ月近く経つ。クレオさんとパーンさんは3年前の解放戦争が終わった後に家を出て行ったから、昔よりはだいぶ静かな生活だけれど、ここ数年ずっと緊張に満ちた日々を送っていた身にとっては、待ちわびていた平凡な日々だった。
「おかわりはいかがです?」
「うん」
 空になった皿を受け取り、台所でおかわりを盛ってから食堂に戻る。
 特別なことなど何一つないように見えるけれど。
 ただ、その中にあって、確実に数年前とは異なるものがある。
 スープをスプーンで運ぶ坊ちゃんの右の手の甲には、テッドさんから受け継いだ紋章が、くっきりとその姿を現している。普段は手袋に隠されているそれが、今は起き抜けとあって無防備に晒されたままだ。
 私は極力気にしていない素振りをしているが、それが目に留まる度、昔とは明らかに違う今を突き付けられている気がしてじくりと心が痛む。
 真の27の紋章の一つ。所有者の近しい者の命を喰らうという、ソウルイーター。
 でも、私はそれを恐れた事は無い。そりゃあ、解放戦争で一度は死にかけたけれども、坊ちゃんのお陰で今こうして生き延びているし、坊ちゃんが私を不要としない限り、そのお側にあるつもりだし、紋章の呪いごときその障害になりはしない。
 そんな私に不安を抱かせる原因は、ただ一つ。
 ふと気付けば、朝食を終えた坊ちゃんが、食べ終わった皿類を重ねて片づけはじめていた。
「あ、私がやりますから、そのままでいいんですよ」
「だってグレミオ、今日体調悪そうだ」
 坊ちゃんがじっと私を見る。
「え、そんな事は」
「……」
 坊ちゃんは背を伸ばして、額を私のそれにあててきた。いきなりだったので、ちょっとどきっとする。すぐ目の前には額を当てたままじっと目を瞑っている坊ちゃんの顔。
「やっぱり、熱がある」
「えっと、あの、でも、微熱でしょう?」
「……」
 坊ちゃんは、黙って私を見ている。いつもあまり感情を表に出さない人であるけれど、今は少し怒っているようだった。
「あの……すみません、じゃあこれ片付けたら、安静にします」
「たら、は駄目」
「えええ、駄目って……」
「僕が風邪の時は何もさせてくれないだろ」
 反論する隙も与えず、坊ちゃんは私が抱えていた皿を強引に受け取ると、そのまま台所へ運んで行った。私も慌てて後を追うが、坊ちゃんが台所から顔を出して私を制した。
「部屋に戻らないと、掃除もするぞ」
「やややめて下さい、そんな雑用まで」
「じゃあ、大人しく寝るように」
「は、はあ……」
 私は仕方なく、張り切って皿洗いを始めた坊ちゃんに後を任せて、一人自室へと戻る事にした。
 確かに夕べから少し体調を崩していて、今朝も熱っぽかった事は分かっていた。でも、大した熱でもなかったし、まさか坊ちゃんが気付くとも思わなかった。
 この熱を坊ちゃんにうつさない為にも、今は坊ちゃんに甘えてゆっくり休む事にしよう。そう思い直し、部屋に入って夜着に着替え、ベッドに潜り込む。
 目を瞑ると、先程熱を計っていた坊ちゃんの顔が浮かぶ。
 少し悪戯っぽさを残した瞳に、少年らしいほっそりとした頬。
 解放戦争以来、坊ちゃんの外見は、全く変化していない。つま先立ちになって額をあてた、成長しない身体。坊ちゃんの背は、あれ以来、もう1ミリも伸びる事が無いのだ。
 紋章が与える不老の力は、日々を重ねる事で確実に、その特異さを露にしてくる。日頃からそんな事を考えて生活している訳では無い。というか、そんな事をずっと考えていては生活など出来ないから、気を向かせないようにしているという方が正しいか。でも時折、日常の瑣末な出来事を通して、どうしてもそれを感じさせられる瞬間がある。
 そんな時は、私は何とも言えない、哀しい気持ちになる。
 ……坊ちゃん自身はどうなんだろうか。
 聞いた事は無かった。
 聞いてはいけない気もした。
 紋章は、それを身につける者に紋章の持つ過去の記憶全てと、時には近しい未来までをも見せるという。
 300年も生きて来たテッドさんの想いを、また、その前任者たちの想いを、坊ちゃんは全てその身に抱え込み、その異常とも言うべき紋章の力を嫌が応でも享受させられているのだ。それなのに、坊ちゃんは辛いとか苦しいとか嫌だとか、そんな言葉を一度として発した事は無い。誰よりも坊ちゃんと一緒に居たと思う私でさえ、聞いた事が無いのだ。戦争の間も、そしてその後も、坊ちゃんはいつもと変わらぬ、少し無口で、心の優しい坊ちゃんのままだった。
 ――それでも、何も感じていない筈は無い。
 そう見えないからこそ、その負担はいかばかりか。
 坊ちゃんの負担を少しでも軽くしてあげるには、私は何が出来るのだろうか。紋章を見る度、その力を見せつけられる度、いつもいつも、その事を考えてしまう。
 そして、いつも、答えは出ないのだ。



 ――私は、少しの間眠っていたようだ。
 気付くと、日はだいぶ高くなっていた。
 ああ、昼ご飯の支度をしないと。
 慌てて起き上がろうとした時、そーっと部屋の扉が開いた。隙間からするりと坊ちゃんが入って来て、起きている私に気付いて少し驚いたようだった。
「何だ、起きてたのか」
「……坊ちゃん」
 坊ちゃんは黙って手に持ったトレイを差し出す。
 湯気を立てているお粥と、スプーンがのっている。
「えっ」
「味見、したけど、良く分かんなくて。まずかったら、また作る」
「えええええ、そんな、いや、坊ちゃんが、これを?」
 ちょっと得意そうに、こくりと頷く。
「坊ちゃん、わざわざ、こんな事されなくても。私、大した熱でもないですし」
 大した症状でも無いのに、焦ってしまう。時計を見ると、ぴったり、いつものお昼時だった。
「グレミオ、食べないのか」
 じーっと期待に満ちた目で、私を見上げる坊ちゃん。
「いや、た、食べますよ、勿論!」
 私はとりあえず、素直に従う事にした。坊ちゃんにせっかく作って頂いて、それを無駄にする事など無論出来はしない。
 お粥は、味はほとんど無かったけれど、温かくて、坊ちゃんに作ってもらったと思うだけで嬉しかった。
 坊ちゃんはベッドの枕元にあった椅子を後ろ向きにして座り、私が食べる様子を頬杖しながら見守ってくれていた。
「ずーっと昔にも、こんな事した気がする」
「そうでしたっけ?」
「父が出かけてる時、やっぱりグレミオが熱出して、寝込んで」
 坊ちゃんの視線が私のスプーンを追う。じっと私の口元に注がれる視線、なんだかそれが妙にどきどきする。
「子供のくせに無謀にもお粥作りに挑戦して、焦がしたりして、大騒ぎして」
「そんな事もありましたっけねえ」
「あの時は結局焦がしちゃってグレミオが作り直したんだけど。今日は、ちゃんと作れたよ」
「ええ、ええ。お上手になりましたね」
 坊ちゃんはうん、と子供のように頷いた。
 しばらく無言で私の食器の音だけが部屋に響く。外からは、鳥の声と葉がさやさやと擦れる音。それが何とも心地よい。
「天気も良いし、一緒にお外のお散歩でもしたかったですねえ」
 坊ちゃんは、無言だった。
 振り返ると、坊ちゃんは椅子の背に顔を伏せて、ただじっとしていた。
「坊……ちゃん?」
 まさか眠ってしまったのかと、覗き込む。
 その時、坊ちゃんがいきなり顔を上げたので、間近で見つめ合ってしまった。私は驚いて体を引き、坊ちゃんはそんな私を見て困ったように目線を泳がせた。
「グレミオは」
 妙な間が空いたのを打ち消すように、坊ちゃんが声を張る。
「はい」
「今の暮らしで、満足か?」
「え?」
 唐突な問いに、私はきょとんとした。
「………どういう意味ですか?」
「僕と一緒に居る事で、不安にはならないか」
 ぎゅっと心臓を掴まれた気がした。
 驚いて見遣ると、坊ちゃんは私から目線を外したままで、どこか遠い所を見ているように見えた。
「グレミオは優しいから、耐えられなくなるんじゃないかと思って」
「どういう、意味ですか」
「分かってるだろう?」
 坊ちゃんの声音には、私が逃げることを許さないような鋭さがあった。
「わ、私は」
 そんな事は、と言おうとしたが、声にならなかった。
「僕は、家を出ようかと思ってる」
「……え?」
 私が驚いて坊ちゃんの方を見ると、いつの間にか坊ちゃんの方も私を見つめていた。
「前から考えてはいたんだ。僕は、ここにずっとは居られないだろうって。いずれは旅立つべきなんだろうなって」
「……それは、何故なんです」
 私は、突然の出来事に問いつめたくなる衝動を押さえながら、出来るだけ静かに坊ちゃんに語りかけた。
「グレミオのお世話が、何か不十分でしたか」
 そう問うと、坊ちゃんはきっぱりと首を振る。
「分かっているだろ。お前のせいじゃない」
 私が戸惑っているのを察してか、坊ちゃんは私の手に、その手を重ねる。手の甲には、あの禍々しい紋章が刻まれている。
「でしたら、なぜ」
 ぎゅ、っと、坊ちゃんの手に力が入る。
「真の紋章を一つ所に留める事は、危険だと思う」
 そう言ってから、坊ちゃんは少し躊躇して、付け加えた。
「それに、記憶が」
「記憶?……紋章の、ですか」
「……うん」
 坊ちゃんは目を伏せた。表情が、分からない。
「毎夜毎夜。それは、段々酷くなってきて、僕はゆっくりと眠る事が出来なくなった」
「……眠れなかったのですか」
 うん、と頷く坊ちゃん。
「夜ごと、紋章の語る言葉、紡ぐ記憶、様々な物を聞き、見た気がする。見たくなくても押し付けられるそれらから、僕はずっと聞かぬふり、見ぬふりをし続けた。だって、全てを取り込んでしまったら、僕が壊れてしまう気がしたから」
 顔を伏せたまま、坊ちゃんは淡々と語る。
「その度に、僕が死ねば、この苦しみから逃れられるのかとも思った。何度も何度も」
 まるで他人事のように。
「でも、死ぬことすら不可能だという事も、すっかり分かっていたんだ」
 坊ちゃんは顔を上げた。私が困惑したまま黙り込んでいるのに、坊ちゃんはいつもと変わらぬ、穏やかな笑みを浮かべていた。
「紋章を受け入れた以上は、僕はそれと向き合わなくちゃいけないんだ。尽きることのないこの命をかけて。それがテッドが僕に望んだ事。テッドが背負ってきた事。ずっと分かっていた筈なのにね」
 坊ちゃんがゆっくりと、私から手を離した。
「グレミオとの生活の間、僕は自分が背負った重荷を忘れられた。それだけで、僕には充分な休息だったと思う」
 私は、何かを言おうにも頭が真っ白で、とにかく必死で言葉を紡ぎ出した。
「……いつ、旅立たれるつもりなのです」
「まだ、決めてはないけど、近いうちに。グレミオの熱も下がってから、だな」
「帰って来られるんでしょう?」
 坊ちゃんは悲しそうに微笑った。
「ここに戻って来る事は、もう無い」
 椅子から立ち上がる。その坊ちゃんの表情は、あの紋章戦争の最後の戦いで見たような、決然とした、迷いの無い顔だった。
「テッドが、300年も彷徨っていた気持ちが、何となく分かるようになってきた気がするんだ。紋章を捨てて命を絶ってしまえば、楽になるのは分かってる。けれど、この僕の薄く引き延ばされた生に意味があるとするならば、この紋章を何者の手にも渡らないようにどこか、どこか……紋章が求めるどこか、彼の地へ。それを僕は生涯をかけて探し続けなければならないのだと思う」
 手に浮かんだ紋章じっと見下ろす坊ちゃんはとても落ち着いた表情で。もう、決まってしまった事なのだと、この別れがどうしようもない事なのだと暗に語っているようだった。
 そのまま振り返る事なく、部屋を出ようとする坊ちゃんに、私はベッドから飛び出してそれを遮った。坊ちゃんは、戸惑ったように私を見る。
「私も、行きます」
 坊ちゃんは吃驚したようだ。
「グレミオは、ずっと一緒に居ます」
 坊ちゃんは首を横に振る。
「無理だ」
「行きます」
「そんなの……無理だ」
 坊ちゃんが言おうとしている事は分かる。
 不老である坊ちゃんとずっと共に有る事は、現実として不可能だと。そう言いたいのだろう。だから、私はこう答える。
「方法は、探しましょう。今から、頑張って探しましょう。この世界は広いんです。紋章がこの世に存在するように、紋章に対抗する術がこの世に存在するかも知れないじゃないですか。旅に出るというのなら、その為の旅でもあったって、良い筈です」
 坊ちゃんは困ったように目を泳がせる。きっと坊ちゃんも考えはしただろう。が、余りに夢想めいた提案に、頷く事も、否定する事も出来ずにいる。
「………そんなもの……ある訳、ない」
 あれば、いままで誰かが見つけてる。そう言いたいのは分かっている。
 でも、私にはそれを受け入れる事など出来ない。
「探しもしないうちから諦めてどうするんです。今までだって、たまたま、誰も見つけていないだけかもしれない」
「だって……だって。あらゆる地を探し回った人だっていた。死に物狂いで足掻いた人だっていた。でも……結局、全て、無意味だった」
「紋章が見せる過去なんて、所詮人の目を通して得た記憶です。勘違いだって思い違いだってあるかもしれない。余命が決められてるとか、期限があるのならあてもなく探す事に希望は持てないかもしれませんが、幸いにして時間はいっぱいあるんでしょう?坊ちゃんには」
 坊ちゃんは、驚いたように私を見つめている。目を見開いた表情は、少し幼く見えて、それだけ見れば小さい頃サプライズでプレゼントを渡した時の様子を思い起こさせる。
 坊ちゃんは、やっぱり坊ちゃんなんだ。
「ですから、坊ちゃん……」
 私は、ぎゅっと坊ちゃんを抱き締める。ずっと変わらぬ、痩せぎすの体からは、確かな温もりを感じられた。
「一人で行くなんて、言わないで下さい」
「……グレミオ……」
 形はどうあれ、坊ちゃんは今こうして私の目の前に居て、生きているんだ。
 それだけで、充分じゃないか。
 私は自分のちっぽけな不安を蹴り飛ばし、坊ちゃんを強く抱き締めた。
 そして、心の底からの決意を伝える。
「もし、坊ちゃんが本当に本当に苦しくて耐えられない時が来たら……その時は、私が、代わりますから」
 そう言った時、びくりと坊ちゃんの身体が震えた。
 それは、私の本心だった。
 坊ちゃんを救う為に必要であれば。この身を滅ぼしてもいい。そう思っていた。
 それが同時に、坊ちゃんを失うことを意味するのだとしても。この方を一人ぼっちで苦しませるぐらいなら、もし本当に楽になりたいとこの方が望むのならば。
 私にその覚悟がある事を、坊ちゃんにただ分かって貰いたかった。
「元々、坊ちゃんに救われた命ですから」
「……馬鹿な事、言うな」
 私の胸元でぽつりと坊ちゃんが呟く。
「この苦しみを、お前に押しつける程、酷い主人じゃない」
「坊ちゃん……」
「……グレミオ」
 吐息が耳をくすぐる。おずおずと背中に回される手。
 ぎゅっと、私を遠慮がちに抱き締めてくる。
 坊ちゃんの事が堪らなく、愛おしく感じた。